「サクッ、サクッ、サクッ」。瓶に入れたお米を、細い棒で何百回とつき続ける。腕や肩がだるくなって、もう動かすのがやっとなのを我慢して「サク、サク」と。 昭和14年12月。白米の販売が禁止され、黒っぽい玄米(精米しない米)しか食べられなくなってしまった。
黒いご飯では「白地に赤く≠フ日の丸の旗の、日の丸弁当ができないよう」と、瓶と棒で手動式の精米を毎晩日課にしてやり続けた。
でも、昭和15年にはお米が配給制になり、大人は1日2合3勺(330グラム)、子供はもっと少なくて、夜なべの米つきもとぎれがちに。
ある日、こんな事があった。学校でお弁当の時間に、みんながふたをあけた途端、「ヒエーッ」。ご飯が少ないので片方に寄ってしまい、梅干しが中にもぐりこんだ無惨な日の丸弁当になっていた。
(絵と文:木村祥刀)
1995年 4月5日
京都新聞 掲載
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